ガキの戯言

のほほんと生きる大学生の備忘録。

少しの平和に貢献するお話 〜移動中のバスの車輪を添えて〜

 

 

 どうもです。今日は監督と俳優についてのお話をしたいなぁと。めっちゃ唐突やけど気にせず最後まで読んで頂けたら嬉しいな😊

 

 

 彼らは演出する上でどんな作品にしたいか、そしてその作風に合う誰かをどうキャスティングするか"決めることができる"。もちろん俳優達はそのオーディションを受ける事で役を勝ち取りに行くのだから、作品ありきな立場なのは言うまでもない。また役は役でも、初めから最後まで登場している役はなかなかいない。全ては監督の一存で決まる。
 ただ監督には番組からの要望で作品を作ることがある。枠が保証されているので人目につき人気になるきっかけとしては有用である。しかし、こればかりになるとやはり大衆ウケがテーマに入ってくるからつまらんくなりがち。よって引き受けるバランスは大事になる、この辺はアーティストでも似たような現象あるよなぁ〜。
 つまり、作家として売れたい時期ならばんばん名を上げることを大事にすべき。餅は餅屋、じゃないけどこの人なら安心して任せられるな、この人に託せば大丈夫だなと思わせられるまでやれば良い。そしてゆくゆくは知名度が伴ってきて、その依頼ばかりこなす必要はなくなる。自分の創作意欲の赴くままにものを作ればいい。
 時には役者になることもいい。お声がかかるか、かからないかのスリルをたまには味わうべきである。でもその時に気づくのは「監督側としての自由」の大きさではないか。自分主体だからこそ好きな内容で好きな役者をキャスティングすることができる、最初に書いたような特性の恩恵を身に染みて感じると思う。
 役者側として立つと、逆に「あやふやな台本、あやふやな監督に対する不安の大きさ」がわかるのではないか。きっちり詰めるべきところは詰めなければならない。アドリブに頼るのは余程の信頼関係がないと成立しない。

 芸能界ではこれまで話してきた逆に、俳優から監督に転向する人も少なくない。その場合、何に気づくのだろうか?

 それは「俳優としての自由」ではないか。台本に書いている文章でも解釈の幅は広く、自由に演技できる。役と自分のすり合わせをして、自分の経験を重ねたり、時には想像したりできる"振る舞う自由"があると思う。
 他には「監督のしんどさ」ではないか。漠然とはしているがやはり0→1を作り出すのは、俳優とはまったくもって毛色が違う。俳優の前でのほほんとしているような監督でも、やることはきっちりやっているということがわかるのでは。

 何事にも言えることではあるけど、体感してみないとわからない苦労や、わざわざ出さない部分っていうのが対立構造には絶対包含されている。監督が俳優になると、普段NGを出しまくっている演技ですら自分ではままならない事に気づく。逆に俳優が監督になると、ケチをつけたかった作品でも裏テーマに本質があったりする。
 大事なのは、お互いの立場が分かった上でなお優劣をつけるのではなく、感謝をすることだと思う。監督には創作の苦労に対しての自由があり、俳優にはファンの大きさに対する演技の自由がある。ただその相互の協力がないと良い作品はできない。
 

 しょうもない言い合いや傷の舐め合いをしている暇があるなら相手への尊敬や感謝を今すぐ伝えろ、ということ!ここで大事なのは感謝は思っていても伝わらない。コミュニケーションである以上、口に出して伝えることが1番重要。


 さぁ、ここまでなぜか監督と俳優について書いてきたけど。これ、"遊びの約束をいつも誘う側といつも誘われる側"の隠喩で書いてみたんです。「は?」て思った人はもう一回読み直してみてください。あ、読者になるボタン押してからね(笑)
意外と似てるところあるでしょ?俺がどっち側なんてのは結論からわかるように無意味やけど、文章量でわかると思う😂

じゃあ、バイバイ~。